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創業明治40年。こだわりのお茶を遠州・森町からお届けいたします。
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» 遠州森町良い茶の出処 浪曲枕詞
浪曲「石松金毘羅代参 三十石船」枕詞誕生秘話
島商店 初代社長 島 房太郎
今をさかのぼること80年以上前、昭和の初めの頃のお話です。
弊社初代社長島房太郎は、金解禁の影響を受け長引く経済恐慌のあおりで衰退した茶業を復活させようと地元業者の若手リーダーとして東奔西走していました。
しかし、今までのやり方では限界を感じていたため、新しい戦略を考えて実行していくのでした。
ひとつは森町の茶業者から出荷される茶箱に貼るラベルデザインを統一して産地を明確にすること、それは大きく中央に白い茶の花があしらわれ「森の茶」の太い筆文字が載せられています。
いわば、現在の「ブランド化」にほかなりません。
さらに当時の娯楽人気絶頂、浪曲師広澤虎造に十八番であった「清水次郎長伝、森の石松」のくだりにかかる前の「枕詞」(まくらことば)の中に「遠州森の茶」をなんとか唄い込んでもらえないか掛け合い、虎造もちょうどそこに良いものが無くて困っていたため、詞は業者側で作ることで快く引き受けてくれたのです。
当初、幾つもの案が出来上がったが納得できるものが無く、義太夫の作者に頼んでみても虎造は首を縦に振るものではありませんでした。
言い出したものの一向に進まない責任感からとうとう自分で作ると啖呵を切ってしまいましたが、当然作詞なんてしたことはないし、困り果て近くの太田川河畔に寝転んでいると一匹の鮎がパシャンと音を立て水面から飛び跳ねたのです。
「若鮎踊る....」「若鮎踊る頃となり....」
そして出来上がったのが
秋葉路や花橘も茶の香り
流れも清き太田川
若鮎踊る頃となり
松の緑も色もさえ
遠州森町良い茶の出処
娘やりたやお茶摘みに
ここは名代の火伏の神
秋葉神社の参道に
産声上げし快男児
昭和の御代まで名を残す
遠州森の石松を
不弁ながらも勤めます
広沢虎造「石松金毘羅代参」 https://youtu.be/qa2TR7RJZQ8
虎造はおおきく頷きました。
そして各地の口演で一番人気の石松の前には、必ずこの枕をうなって「遠州森町良い茶の出何処」というところでぐっと力を込めたのです。
これが聴衆の耳に残ったのでしょう。ラジオ、レコードでも流れ、「森の茶」の名前は一気に房太郎の思い通り日本全国に広まっていきました。
なんということでしょう。これは現在でいう「メディア戦略」だったのです。
後に「あの枕でお茶が売れたかどうか解らんねえ。」とうそぶいていたそうですが、業者組合から顕彰碑も建てて貰ったりしているので復興に寄与したことは間違いないようです。
昭和も終わり平成、令和と時代は過ぎ浪曲という娯楽も、もはや伝統芸能の域に入って日常生活で耳にすることも滅多になくなりましたが、弊社のパッケージにはいまだに「遠州森町良い茶の出処~」を刷り込んでいます。
もし、あのときたった一匹の鮎が跳ねなかったら.....
今の私たちは存在しなかったかもしれません。
房太郎は戦略だけではなく、茶の製造にもたいへん気をつかっておりました。
当時のお茶は形のみを追求し、おいしく淹れるのにひじょうに難しいもので消費者の茶離れに心を痛めていました。
今も産業遺産のように残っている昭和10年ころ建てた弊社工場に張ってある自作のスローガンに「充分蒸して 姿より味へ」と書き付けてあります。
今主流の「深蒸し茶」を作ろうと思っていたかどうかは解りませんが、誰でも手軽に淹れられ美味しく飲んで貰えるお茶作りを心がけていました。
現在、ドリンク市場の拡大、嗜好の多様化、生産者の高齢化、後継者不足などにより茶業界もたいへん厳しい状況にありますが弊社は初代社長の遺志を受け継ぎ、ここ遠州地方のお茶のみを扱うことに徹しております。
長文ご精読ありがとうございました。
どうぞ遠州地方独特の爽やかな香り、スッキリとした後味、甘みと渋味の程よいバランスをお楽しみ下さい。